レポートとか・・・

今日のエウレカもおもしろかったねー。アスカみたいな子出ていてたべ。「死ぬのはイヤ!死ぬのはイヤ!」とか連呼しそーW
OPもナニゲちょっとづつ変わってる。思わせぶりで好きV あと、ムーンドギー、可愛すぎ、襲うぞ。。


 倫理のレポートは、ともかく書き始めてはみたけど、何が書きたいのかサッパリ分からない内容。
内容的には『授業を聞いてどう思ったか』みたいな感想みたいんなのに、自分のこと書いてる。その内容がどう繋がるの?自分に問い詰めたい。
ちなみに、書いてる内容はこんなん↓

私に「何で?」と聞く前に、あなたが「何で」か教えてよ。

『マイノリティ』という言葉で表されるほどではありませんが、小学校の高学年ころから―それ以前もそうだったのでしょうが、私自身が決定的に意識したのはそのころでした―『個性的』『ユニーク』、といった言葉が、私を評する際に用いられるようになりました。
そのこと事態はなんら私を否定するものではありませんでした。ごく一部(人間誰しもすべての人から好かれるなんて無理なんだ、で片付けられる程度に一部)の人からは、否定的な言葉もかけられましたが、おおむねの人たちは、私が『変わっている』ということに関して、非常に肯定的な態度でした。


私は自覚的でありたいと思った。しかし、それは私自身についての重要なことを語っているのだと気づく。

 男だから男らしく、女だから女らしくしなきゃいけないなんて、そんなのとてもつまらないし、窮屈なことだと思います。
私は、女とか男とか関係なく私だし、私のなかの一要素が『女』なのであって、女の中のバリエーションに『私』がいるわけじゃない。

 高校以来の友人が、最近恋をしたらしい。それは大いにけっこうなことだ。
しかし、私は愕然とした。高校時代の彼女は、向学心にあふれ、「親のことは好きだし、家も好きだけれども、早く社会に出てひとり立ちをしたい。」と語る独立心あふれる女性だった。だが、ひさかたぶりに会った彼女は、これが本当に同一の人物だろうか?と、疑わしくなるほどに変わっていた。むろん、変わることは悪くない、人間はつねに変わりゆくものだ。しかし、「ファッションのコンセプトは万人受けのする『モテ系』」、「やっぱり家庭を持って、子どもを産みたい。」
 男性に好かれるような服装や仕草をすること、家庭にはいること、それらを自由意志で選択するのならそれは個人の自由であるし、彼女自身そのようなことに幸せを見出しているのだから、それはまことに結構なことだ。
ならば、なぜ私はこうまでも愕然としなければならなかったのであろうか。
それは、一言で表すならば、『疎外感』ではないだろうか?
いかに親しい友人であろうと、彼女はマジョリティ側の人間であり、性別二元制と異性愛中心主義の規範に、なんの疑いも無く乗れる人間であり、自分はそうではない―いうなれば、取り残された―存在なのだという疎外感ではないだろうか。

 途中で内容変更があった模様。覚書もいい加減にしろって話。
だれかー、ジェンダーと性は変化させられるものだ〜、とかそういうことについて語らいません?(ヤメレ